横須賀 ヴェルニー記念館

異人たちの足跡 4 F. L. ヴェルニー

ヴェルニー公園の対岸には、フランス人技師、フランソワ・レオンス・ヴェルニー(François Léonce Verny)の技術指導の元に造られた造船所の遺構がある。現在は、在日米軍横須賀海軍施設(ベース)内にあるため立ち入りはできないが、横須賀製鉄所は、日本が近代化を進める上で、最も重要な基点であった。公園の一角には、ヴェルニーの功績と、横須賀製鉄所建設の意義を伝えるための記念館がある。

ヴェルニー記念館

館内には巨大なスチームハンマーが展示されている。スチームハンマーとは、蒸気機関でハンマーを持ち上げて、加熱した金属素材を鍛造する工作機械である。横須賀製鉄所では、スクリューなど、船の部品を製作するのに使われていた。記念館にあるのは、1865(慶応元)年にオランダで製造され、翌年日本に輸入されたものである。記念館は入館無料。午前9時から午後5時まで。月曜休館。

製鉄所建設まで

上海ですでに4隻の砲艦を建造していたヴェルニーは、1865(慶応元)年、フランス政府の依頼で製鉄所建設の資料と見積書を持って来日した。ヴェルニーは直ちに横須賀に赴き、各方面に挨拶をした後、土地測量の指示を出してから一時フランスに戻った。そして、技術者の人選と契約、各種製作機械の購入、フランス政府との連絡など、次々に仕事を進める傍ら、日本使節の世話役も務めている。海軍省からヨーロッパに派遣されていた日本使節(柴田日向守)一行がフランスに到着すると、ヴェルニーは、フランスの軍港ツーロンを中心に、国内の造船所、軍艦修繕所、上下水道、鉄具工場、船材工場、器械製作所などを精力的に案内している。その後、ヴェルニーはすぐに日本に戻り、横浜港に着いた翌日には、横須賀に入って土木工事の進捗状況を確認し、再び横浜に戻って雑務を終えてから、横須賀に移ってバラック住まいを始めた。まったく、目の回るようなスケジュールである!

その後の工事はまず、二つの入り江を埋め立てることから始まった。次に山を削って平地を造り、船台、倉庫、煉瓦工場などが建てられた。そして造船のための各種工場建設、ドライドック開削へと、施設はどんどん拡張されていった。一方、ヴェルニーの基本構想には、構内に日本人の技術者を養成するための理工系専門学校を設立することが盛り込まれていた。教育科目は、化学、物理、数学に重点を置き、施設内での公用語、フランス語はもちろん、必須であった。

ヴェルニーは、造船のみならず、東京近辺の4つの灯台や富岡製糸場、生野銀山の機械製作にも携わっており、それらはすべて日本の殖産産業の基礎となっていく。

ヴェルニーが横須賀に勤務していた頃のフランス人居住者は、のべ90名、一つのフランス人社会が作られていた。帳簿のつけ方、メートル法の導入などは、この時フランス人が日本にもたらしたものである。

明治維新と造船所への移行

1867(慶応3)年10月14日、徳川慶喜は大政奉還を上奏し、翌日それが許可された。12月に朝廷が王政復古を宣言すると、各地で新政府軍と幕府軍の衝突が起こる。戦火は国内数カ所に飛び火し、横須賀はもはや安全ではなかった。翌1868(慶応4)年3月、ヴェルニーは、工事を中断して横浜に退去するよう、幕府から勧告を受けるが、横須賀港に通報艇を碇泊させ、そのまま留まった。日本の将来のためには、重工業の基礎となる製鉄所と造船所の建設は、何があっても中断してはならないと、ヴェルニーは考えていたのである。そして4月、横須賀製鉄所は新政府軍に受け渡されることになり、ヴェルニーらは事業を継続することになった。

1871(明治4)年、製鉄所の名称が横須賀造船所に改められた。そしていよいよ、1873(明治6)年に国産の軍艦を製造することになる。1875(明治8)年、日本初の国産軍艦『清輝』(882t)が完成した。進水式には明治天皇を迎え、横須賀村民とともに完成を祝った。その年の暮れ、ヴェルニーは宮内省で天皇の謁見を受け、勅語を賜った。しかし、明治政府にとってヴェルニーの高額な年棒は頭痛の種となっていた。ヴェルニーは解職を受諾し、1876(明治9)年3月、横浜港から帰国の途についた。なお、離日前には、長年に渡るヴェルニーの貢献に感謝して、浜離宮、延遼院で政府主催の送別の宴が催された。

離日後のヴェルニー

帰仏したヴェルニーは、故郷のオーブナからさほど遠くない、フランス中部のサンテティエンヌの炭坑で、約20年間所長を務めた。また1895(明治28)年まで、商工会議所の幹事の地位にあった。退職後はオーブナに戻って悠々自適の生活を送っていたという。1908(明治41)年、肺炎により自宅で亡くなった。墓は自宅から数分のところにある共同墓地で、一族とともに眠っている。

なお、ヴェルニーは日本滞在中に結婚し、3人の子供に恵まれている。妻は上海領事ブルニエ・ド・モンモラン子爵の末娘マリー。上海で結婚式を挙げたあと、二人は横須賀の宿舎で新婚生活を送っていた。子供たちはいずれも日本生まれで、長女フランソワーズは横浜で、長男ジョルジュと次女エドメは横須賀で生まれた。

残された写真から想像すると、丘の上のヴェルニーの宿舎からは、横須賀湾と製鉄所の全景が見渡せたに違いない。ヴェルニーは毎朝、この丘から製鉄所に出勤し、夕方家族の待つ宿舎に帰った。人生の中で最も活力に満ちた時代に日本の近代化のために尽くし、後世に技術遺産を残してくれたヴェルニー。その人のことを思いながら、この公園を歩いてみるのはいかがだろうか。

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